タモリ自身「30歳までは何をやってもいいが、30歳からはちゃんとしたことをやっていかなければならない」と考えて自分はお笑いの道に向いていると確信し、芸能界入り。
きっかけは、ジャズピアニストの山下洋輔との出会い。1972年、タモリが大分県日田市のボウリング場支配人だった時に始まる。当時の山下は、ライブ後ホテルで乱痴気騒ぎをすることを常としており、渡辺貞夫のツアーメンバーの一人として福岡を訪れた際も同様であった。
サックス奏者(資料によっては、ドラムス奏者とする場合もあるがこれは間違い)の中村誠一が部屋にあったゴミ箱を頭にかぶり、メンバーで歌舞伎の踊りや狂言など虚無僧ごっこをして遊んでいた。タモリは、渡辺貞夫のマネージャーと学生時代の友人同士であったために同じホテルで飲んでいたところ、廊下まで響くその騒ぎを聞きつけ、鍵の開いていた部屋へと乱入し、ゴミ箱を取り上げて自ら歌舞伎を踊り始めた。中村は、その非礼をインチキ朝鮮語でなじったところ、タモリがそれより上手なインチキ中国語で返答したために、意気投合したという。後日、「この男はジャズ・ファンに違いない」と確信した山下らジャズメンが、博多のジャズバーに片っ端から問い合わせた結果、とあるジャズバーで発見された。ただし、山下がこの時点でタモリが誰かを知らなかったというのは、山下が意図的に作った「伝説」で、実際にはタモリは、昼間に行われた山下らのライブを観に来ており、そこで知人から紹介されていたという。タモリは後に、ホテルの扉を開けなければ、芸能界に入っていないかもしれなかった、と語っており、「人生の扉である」とまとめている。ちなみに「人生の扉である」とは、ここ数年前に思いついたらしい。
その後、新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」の常連(奥成達、高信太郎、長谷邦夫、山下洋輔、森山威男、坂田明、三上寛、長谷川法世、南伸坊ら)で結成された「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパによって、1975年6月に上京を果たす。開かれた独演会では「四ヶ国語麻雀」や、「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露し、筒井康隆、唐十郎ら臨席した全員を感動させる。タモリの芸は奥成達から「密室芸」と命名された。
臨席したうちの一人である漫画家の赤塚不二夫は、「この男を博多に帰してはいけない」と引き留め、自らの家に居候させた。後にプロデューサー的にタモリを売り出し、しばしば一緒に仕事をした高平哲郎にも、しばらくして「ジャックの豆の木」を見せ、意気投合している。作家の阿佐田哲也は、タモリと赤塚が裸で抱き合っているバカ騒ぎの場面に出くわし、その様子を自身の小説の中で描写した。初期の真ん中分けの頭にアイパッチという姿は、カメラマンの浅井慎平が「サイレント映画の大スター、ルドルフ・バレンチノ風にしよう」と、スタイリングしたもの。
バーでの一件の直後、赤塚が出演する『赤塚不二夫の世界』(NET〈現・テレビ朝日〉)の生放送にそのまま連れて行かれ、インチキ牧師などのパフォーマンスを演じさせたところ、たまたま、当番組を見ていた黒柳徹子から「今の人、誰? すごいじゃない」とその夜のうちに照会があったそうで、彼女の感性の鋭さに感心した、と赤塚がコメントしている。その直後、芸能界入りの前のサラリーマン時代に『徹子の部屋』(テレビ朝日系列)に初出演。
タモリの赤塚不二夫宅での居候生活は、住居は家賃17万円で4LDKのマンションであり、車はベンツのスポーツタイプが乗り放題、赤塚からは月に20万円の小遣いが渡される、という破格のものだった。赤塚本人は、下落合の仕事場のロッカーを倒し、布団を敷いて寝ていた。赤塚以外ではこんな関係は成り立たなかっただろう、とタモリも認め、大恩人だと語っている。ちなみに赤塚は、自著の漫画で、「これだけ一緒に暮らしているんだから愛し合うことも出来るんじゃないか」と、2人で同性愛に挑戦して抱き合ったが、全く興奮せず、何もなかったと描いており、タモリも同様の趣旨の発言をしている。タモリが考える居候の秘訣は、「卑屈になるな」。
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