大阪と京都の間には1876年(明治9年)、淀川右岸(西側)に官営鉄道(現在のJR京都線)が敷かれたが運賃が27銭と高く、上り12銭・下り10銭の淀川の蒸気船が貨客輸送の主力だった。そこで左岸(東側)の京街道沿いに大阪と京都を結ぶ電気鉄道を建設する計画として、東京の渋沢栄一、岡崎邦輔などの実業家グループの私設鉄道法による「京阪鉄道」と、村野山人や松本重太郎などの京阪神地区の財界人らの軌道条例による「畿内電気鉄道」の建設計画が同時期に立てられた。両派は競願のムダを避けて話し合いの末に一本化し畿内電気鉄道株式会社として設立。1903年(明治36年)11月9日改めて畿内電気鉄道として軌道条例による路線特許が申請された。その後1905年(明治38年)8月30日の発起人会・設立委員会で京都 - 大阪を結ぶ鉄道ということをあらわす「京阪電気鉄道株式会社」に名称変更すること、運輸だけでなく電力供給事業・同関連事業を兼業することが決められた。1906年(明治39年)8月25日に軌道敷設の特許がおり、同年11月19日に東京商業会議所で創立総会を開催し京阪電気鉄道株式会社が設立された。
建設に当たり用地買収と路線の実測を開始すると大阪市の行政指導(市営モンロー主義)や淀川沿いの軟弱地盤・用地買収の遅れ・京都での琵琶湖疏水堤防上への変更などで十数か所にわたりルートの変更を余儀なくされ1908年(明治41年)9月にようやく全路線の青写真が出来上がり、同年10月より4工区に分割され建設工事が開始された。そして1910年3月に軌道の敷設は完了した。
1910年(明治43年)4月15日に最初の路線として大阪・天満橋 - 京都・五条(現在の清水五条)間が開業した。阪神電気鉄道などと同様に軌道特許で開業したため、当初は併用軌道や急曲線が至る所にあり、「京阪電鉄“カーブ”式会社」とも揶揄されたほどであったが、それを克服するため様々な技術開発が行われた。また集客策として10月から12月にかけて香里園にあった香里遊園地で『菊人形展』を開催、1912年からは枚方市に隣接する1万m2を買収(のちの枚方パーク)して10月6日から11月25日にかけて菊人形展が開催された。
1911年10月(明治44年)には森小路 - 香里(現在の香里園)間の沿線で電灯電力供給事業を開始。翌1912年には摂津電気を買収し淀川右岸への電力供給事業を手に入れ、1921年(大正10年)7月に和歌山水力電気を、1926年(大正15年)12月に日高川水力電気を合併し、京阪沿線だけでなく和歌山県の電力供給の約75パーセントを京阪が供給することとなった。
1922年ごろより営業エリアの滋賀県琵琶湖周辺への拡大を狙い京津電気軌道との合併交渉を開始するが、京津電気軌道の一部役員が京都電燈との合併を望み、話し合いの結果、電力供給は京都電燈へ売却、軌道部門は京阪電鉄に合併されることが決まり、1925年2月に京津電気軌道を合併。続けて湖南汽船から増資を引き受けて1926年7月に湖南汽船を子会社化した。これに対抗して大津電車軌道・湖南鉄道・太湖汽船は合併して琵琶湖鉄道汽船を設立。しかしこうした争いは「双方にマイナスになる」と、湖南汽船の社長の仲介により琵琶湖鉄道汽船との合併交渉が進められ、鉄道部門の大津電車軌道部分を京阪へ、湖南鉄道部分は別会社の八日市鉄道(のちに近江鉄道に合併)として独立、船舶部門は湖南汽船に譲渡して(新)太湖汽船(のちの琵琶湖汽船)となった。これにより琵琶湖を自社の営業エリアに収めた(京阪の社史では「湖上制覇」と表現している)。
また、並行線を他社によって敷設されることを阻止する企業防衛のための新京阪鉄道(現在の阪急京都本線)建設や奈良電気鉄道(奈良電、現在の近鉄京都線)・阪和電気鉄道(現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線)への関与、さらには和歌山(阪和と和歌山軌道線)への進出など積極的な拡張策を展開した。しかし、投資が回収できないうちに昭和恐慌に見舞われ、債務処理のため1930年(昭和5年)5月和歌山地区の電力供給部門・軌道部門は合同電気株式会社へ譲渡され、同年9月新京阪鉄道を合併し債務の圧縮を図るなど逼塞を余儀なくされる。
この時期は節電に大規模な投資が行われた、1932年(昭和7年)12月、正雀・守口・伏見の3変電所に大容量の蓄電池を設置、深夜電力を充電して電力使用ピーク時に放電する「ピークカット用蓄電池」が設置された。この投資に当時60万円が投入されたが電力料金を年間20万円の節約でき、1934年の室戸台風では電力会社からの送電が回復前に一部区間で列車の運転をさせることができた。翌1933年(昭和8年)4月には日本初のコンパウンドモーターによる回生ブレーキ付き電車50形4両が京津線に投入された。
1941年8月発布の配電統制令により電力供給事業を関西配電(のちの関西電力)に現物出資の形で失い、太平洋戦争中には陸上交通事業調整法に基づき阪神急行電鉄と合併し、京阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄、現在の阪急阪神ホールディングス)となる。
戦後1949年12月に京阪神急行電鉄から分離して京阪電気鉄道株式会社として再発足するが、この時、新京阪線は阪急に残ることとなり、京阪線・交野線・宇治線・京津線・石山坂本線の5路線、子会社も太湖汽船(現在の琵琶湖汽船)、京阪自動車(現在の京阪バス)での再発足となった。その後、南日本航空(現在のかんこう)、宇治田原自動車(宇治京阪タクシー・京阪宇治交通の母体)などに出資、子会社化した。
また近畿日本鉄道との間で奈良電気鉄道をめぐって株式の争奪戦をしたが、1962年に当時の関西電力社長で京阪再発足時の京阪神急行社長であった太田垣士郎の仲介により、京阪の持つ奈良電気鉄道の株式を近鉄に譲渡、奈良電は近鉄に合併され、近鉄京都線となった。その前年(1961年)近畿日本鉄道と西武鉄道が株式の買い集めをおこなっていた江若鉄道(現在の江若交通)を、1962年に京福電気鉄道を子会社化した。
これらの経験が、他の関西大手私鉄と比べて事業の多角化に慎重で、「本線の淀屋橋延長」「複々線区間の延長」「鴨東線」の開通と本業を重視し、京阪沿線の不動産開発や京阪百貨店の開業など地域密着する傾向につながった。再発足から25年間社長を務めた村岡四郎は、就任時に「大阪中心部への乗り入れ」「京阪線曲線部の改良」「鴨東線の建設」を公約に掲げ、「当社の事業はどこまでも電気鉄道中心だ」「不動産事業もそれからデパートにしても、あるいはその他の雑多な事業でも、やはり鉄道というのが一つの大きな骨格になっている」と語っていたという証言が残されている。しかし、並行路線である大阪市営地下鉄谷町線の守口市大日への延長・京都市営地下鉄烏丸線の開業・JR東西線の開業と片町線の近代化などによる乗客数の減少、さらに少子・高齢化により鉄道事業のみでは今後の発展は望めないとして、観光事業を強化。1985年4月に福井県小浜市に「小浜フィッシャマンズ・ワーフ」を開業、1988年4月に瀬戸大橋・与島に「瀬戸大橋京阪フィッシャマンズ・ワーフ」を開業した。だがバブル崩壊と瀬戸大橋の高額な通行料金により利用客が減少。2003年3月末に若狭湾観光と京阪フィッシャマンズ・ワーフの全株式を売却、京阪グループから分離された。
その後、本業の鉄道事業では2001年中之島新線の建設着手を決定、建設主体となる第三セクター中之島高速鉄道を設立、2003年5月着工、2008年10月19日に開業した。
そして2006年には、開業100年(2010年)を迎えるのにあたり、持株会社化の方針を表明するとともにエリア外(とくに関東地方)での事業多角化を進めることを明らかにしている。京都への団体観光客誘致に関東・中部に進出した京阪交通社に続き、2003年に京阪電鉄不動産・ジューサーバーが関東に進出し、「ホテル京阪」や流通事業についても全国展開を進める方針である。2009年6月6日には、北海道札幌市内に「ホテル京阪札幌」が、同年11月21日には東京都台東区内に、「ホテル京阪浅草」も開業した。
また、京阪グループ全体の持株会社化に備えて、中間持株会社の2008年に京阪タクシーシステムズを、2009年には京阪バスシステムズを、不動産賃貸管理子会社の京阪ビルディングを京阪電鉄本体に吸収合併したほか、京阪建設を京阪エンジニアリングサービスへ合併、京阪福井国際カントリーを売却、2010年には京阪タクシーなど京阪タクシー関連7社を第一交通産業(北九州市)へ譲渡、2011年7月には旅行代理業務をJTBとの合弁会社であるJTB京阪トラベルへ移管(同時に関東・中部の営業所を閉鎖)した後、京阪交通社を解散するなど、子会社の整理統廃合も進められている。
なお、2007年6月より、社長/会長制度から、大手私鉄では初めてCEO/COO制度に移行している。
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